こんにちは!飯生音楽教室の、講師飯生優子です。
実は先日、驚くような出来事がありました。
教室は鎌ケ谷駅近くですが、私自身は新鎌ケ谷に住んでいるため、駅前のショッピングモールによく行くことがあります。
自転車を、駅側のメインエントランス近くの駐輪場に停めている時でした。
目の前を、空っぽのバギーを押して歩く父。
母は上の子と手をつなぎ、更に3番目の赤ちゃんをバギーに乗せて、先を歩いていました。
すると、とつぜん、父親が、
『おい!早くしろっつってんだろ!!きもちわりぃな!!』
と叫び、ショッピングモール前で遊びに夢中だった男の子(2歳になるかならないかくらいの感じでした)の片方の手首を掴み、振り回すように片手で子どもを宙ぶらりんにしたかと思ったら、空っぽのバギーに放り込んだのです!!!
もちろん子どもは大泣き。放り込まれたので、バギーに絡まるように、無理な体勢で、そのまま連れていかれていきました。
私は、その一部始終を見ていましたから、思わず、私の前を通り過ぎる父親に、大きく声を掛けました。
『すみません!もっと大事にしてあげてください!!お子さんのこと!!!』
逆ギレされるかも、、、と、多少は過りましたが、肘も肩も脱臼しかねない行為。バギーにも、足など絡まったら、最悪骨折しかねません。
沢山のお子さんを抱えて、まだ若いようでしたので、カッとなりやすくなる気持ちはわからなくはないですが、もしこれを保育士や教員、警察や児童相談所の職員が目撃したら、間違いなく虐待として、すぐに子どもは保護者から引き離されてしまう可能性もあります。
私に強く声をかけられた父親。マスクをしていますから、表情はわかりません。でも、目が「はっ」と、何かドキッとしたような、そんな目になって、何も言葉を発することなく通り過ぎていきました。
子育ての正解というのは、一つに絞れるものではありませんが、「してはいけないこと」というものは確実にあります。
また、汚い言葉で罵ったり、怒鳴りつけたり、そういった経験から、子どもの脳の部分部分で成長が止まってしまうことが、児童精神科の研究により明らかになっています。
「そうはいっても、じぶんは殴られて育ったし!!」
という方もいるかもしれません。
ただし、それは、その時代の価値観に過ぎません。 特に、戦争を経験した世代は、教育も軍隊式で大変厳しかったものだと思います。
それが仕方ない時代だった、とでもいいましょうか。。。
あのころから、今の子どもたちは4世代目くらいに当たると思います。
児童心理などの研究も、ずいぶん進んでいます。
たとえば、乳幼児や児童期の前半は、「頭」「心」「体」が未分化の状態です。
なので嬉しいことがあれば、「やった~!」と叫び(頭)、身体はぴょんぴょん飛び跳ねたり(体)、喜び(心)が、頭と体と同時に反応するわけです。
癇癪を起している時もそうですね。地団太を踏んで、泣きわめき、怒りをあらわにするわけです。
これは、この年代にとって、自然なことであり、成長するにつれ、理性(頭)、感情(心)、行動(体)がうまく独立していくわけです。
その、当たり前のことを否定して育ててしまったら、子どもは混乱します。
もちろん、必要な時には、きちんと叱らなければなりません。
ただ、暴力が必要な場面は、まずありません。
学校教育では、体罰は厳重に禁止されています。
教室に5分立たせただけで、大きな問題になったケースも見たことがあります。
(音楽の時間なんて45分殆ど立ちっぱなしで歌っているのに、、、)
(運動会なんて壮大な罰ゲームになりかねない気が、、、)
と、音楽専科教諭だった私は ちょっとひねくれつつ(笑)複雑な気持ちになりましたが(;'∀')
痛みは、生きていれば勝手に学びます。
角に足の小指をぶつければ、しばらく動けないくらい痛いですね(笑)
頭をぶつけてたんこぶになることもあります。
鬼ごっこをしていて、思いっきり前に倒れて、膝を擦りむいて大泣きする子もいました。(転ぶときに手が前に出ない子が増えている印象はあります。)
なので、大人があえて手を挙げて、余計な痛みを味わわせる必要などないのです。
子どものうちにする失敗なんて、大人が会社で大きなミスを犯すなどに比べれば、たいしたことではありません。
むしろ、子どもは親の背中を見て育ちますから、殴られたり叩かれたりするからこそ、無意識で子も同じことをしてしまいます。
アンガーマネージメント、アンガーコントロール、という言葉があります。
ついカッとしたときに、自分を客観的に見つめ、感情任せにならない工夫です。
本屋さんに行けば、必ずアンガーコントロールの書籍が出ています。
是非手に取ってみてください。
ネットでも簡単に記事は出てくるとは思いますが、特に心に関するものは、書籍のほうが私は好きです。
立ち止まって考えたり、部分的に読み返したり、自分はどうだろうと客観的になる余裕が持てます。
子どもにすべての理解を求めるのは、私は大人として、ずいぶん他力本願で、むしろ子どもに甘えているようにも映ります。
その延長の最たるものが、悲しい虐待に繋がっていくように思います。
あの日出会った父親が、子どもとの向き合い方を少しでも見つめてくれるのか、逆にイライラが増して暴力に走るのか、、、
見届けることはできません。
社会全体で子どもを育てていく。私のゆるぎない信念です。